京都

今日は学部時代の友人と嵐山で花見。
地元のすぐそばなので、ここがどう、あそこがどう、などと言いながら。
関西の他府県に住んでいる友人からよく言われることは、「こんなところが近くにあって良いなぁ」ということ。
嵐山まで自転車で30分程度。
良いも何も、「ありがたみ」がない。
自分が他府県に住んでいる側なら、もうちょっとは「ありがたみ」を感じるんやろか。
京都の人のどれだけの人が、自分の住んでいる町の「観光地」に好んで行くんやろか?
僕は清水寺に行ったりしだしたのは高校に入ってから、金閣とかには小学校の社会見学で行ったけど。
そういうところに行って、観光客の買い物姿を見ていつも思うのは、「え、そんなもん日本のどこにでも売ってるやろ?」ということ。
今日なんかでもそう。
和柄のプリントとか刺繍をした蝦蟇口や鞄などなど、そんなものは京都に来なくても売ってるんとちゃうん?
土産物屋で、そこって立ち寄る必要あるん?
そういう「こと」や「もの」を見ていると、京都と言う場所にはある種の「日本」が凝縮されているんやろうと感じる。
いわゆる「伝統的日本」的な何かが、ココには「ある」のでしょう。
去年知り合った写真の研究をされている先生と話をしていた時に、「京都性の構築」という話を簡単にしていた。
フーコーの『監獄の誕生』での<まなざし>とその内面化の話からそういう話になった。
フーコーの『監獄』の話は省略するけど、他者からの<まなざし>を内面化することで、京都の人は「京都の人」であることを、京都は「京都」であることを構築していく。
人がそこを「京都」と認識するのであれば、京都は「京都」でなくてはならない、「京都」を「演じる」的な話。
そんな話を思い出したけど、京都は「京都」であるようにさせられているのか、あるいは自らがそうしているのか、わからへんのとちゃうやろうか?と思う。
他者によって表象されているのか、自らが表象しているのか(自己表象)、どちらが先なんかは知らんけど、間違いなくこの二つは相互に作用して、その「京都」であることを強めていっている。
<まなざし>を受けるからなのか、<まなざし>を受けるためなのか・・・いま考えてたらぐるぐるぐるぐるしてきて良くわからなくなってきた。
同じ話を繰り返しましたが、構築された「京都性」に「伝統的日本」っていう付加価値がつけられることで、こんな現象が起きるんかなぁと。
そこに商業がのっかかってくるから、その「京都性」は余計面倒くさいものになってくるなぁと。
そんなこと考えてたら、「答えが出されへんのにこんなん書くって、まだまだ勉強足らへんなぁ」と。
そういうわけでジョン・アーリーの以下の二冊を読んで、勉強したいと思います。

観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)

観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)


場所を消費する (叢書・ウニベルシタス)

場所を消費する (叢書・ウニベルシタス)


こういう観光産業とかって、自分の研究にも関わってくるので、いい加減勉強せなあかんな、と。
考えてたことを吐き出すために書き出すのはいいけど、中途半端にしすぎるのも良くないな、と。
この話をしていた先生とは連絡を取る期間があきすぎてしまい、どうして良いかわからなくなり、連絡が取れずにいる・・・これもなんとかせなあかん。
どうもすみません、ちゃんと勉強し(てい)ます。


こうやって普段話す言葉で書く部分があったりする、そんな自分も「京都性」を構築する人間の一人なのでしょうね。