ことばといしき

やっぱり人って言うのは、出身によって喋る言葉に特徴があるらしい。

京都を離れて名古屋にでて、大きい地域のまたぎ方をしたからかなり違う言葉に囲まれていると思う。

正直な印象として、こっちの言葉はちょっと綺麗やとは思えへんし、すごくキツく感じることがある。

仕事とかで東京なんかにいくと、何ていうか、テレビでよく聞く喋り方。

関西を離れて一年半、言葉の違いでこれは馴染めへんし、かなんなぁと思うのがいくつか。

語尾の「じゃん」、「ね」、後は「ウケる」。

前者二つは方言的な違いやさかいにまだわかるんやけど、面白いことに「ウケる」と言うこと、意味はわかるけど感覚がわからへん。

前者二つに関しては関西では「やん」と「ね」、「すごいやん(すごいじゃん)」とか「いいな(いいね)」とか。

「な(ね)」に関しては相槌の「(そうだよ)ねー」は「(そうやん)なー」みたいな感じで、たまにつられて「ねー」って言ってしまうと、すごく恥ずかしくなる。

一応、関西でも「ねぇ」は言うことはあるけど、「ねー」じゃなくて「ねぇ」っていう音の取り方やと思う。


まぁ方言がどうって話をするつもりじゃなかったんやけど……。


どうやらやっぱり関西の中でも、地域差があるみたい。

僕は京都の方出身やけど、文化的には純粋な京都ではなくやっぱり「関西圏」の出身やと思っていて。

家族は父親の家系はずっと京都で、外の人は母親(兵庫)だけ、母親は関西弁やけどやっぱり播磨弁がきつい時がある。

昔、祖母からは「そんな汚い言葉、使わんといて」と言われたことがあるらしい。

本音と建前を使い分ける、とか、腹黒い的な扱いをされる京都の人ですが、言うことははっきり言います。

話は戻って。


そんなこんなで、(純粋じゃないけど)京都の家系に生まれ育った僕やけども、テレビとかの影響もあって、話す言葉は関西弁やと思っていた。

先日出張で関西に言った時、先輩から「京都と関西は雰囲気ご違うね」なんてことを言われた。

あんまり、何が違うんかよくわかっていないというか、自覚がない。

そんなことがあったんやと、その晩にお夕飯を一緒に食べた大学時代の先輩に話をしたら「いや、あんただいぶ京都やで」と指摘をされる。

僕は大学は大阪の方にでてたから大阪の人は多かったし、滋賀とかも含めて関西全域の友人は多かった。

周りの友人と同じ言葉を使って同じように話をしていると思っていた。

ただどうやら言葉の使い方とか音の取り方、話の仕方が違うみたいで、喋ってる本人は自覚がない……主体なんやからそんなもんなんやろうけど。

関西の中ではそんな感じで自覚がないんやけど、これがまた外に出るとまた変わってくる。

関西出身ではなく「京都出身」というイメージの方が優先される。

それは自分の中でではなく、周りの人のイメージ。

それはそうなんやけど自分でもどこかやっぱり、出自というものに強い意識を持つようになった影響はあると思う。

極端な言い方やけど自分の知らなかった世界にでて行った時に、自分が何者なのかっていうことの拠り所がそういうとこなんやと思う。

関西じゃなくて、京都。

喋る言葉は関西弁じゃなくて「京都弁」やと思われている。

言葉自体の違いにはさっきと同じようにちょっと意識は弱いんやけど、ただ自分が京都出身、京都人であるような振る舞いをするというか。

それはエドワード・W・サイードのオリエンタリズムに対して「セルフ・オリエンタリズム」があるように。

「セルフ・オリエンタリズム」じゃないんやけど、人の持つイメージを自ら有効に利用している節があるような。

そんな気はしないでもない。

自分のアイデンティティみたいなものは、やっぱり他者を前にした時に構築されるとは思うんやけど、人から向けられる「まなざし」というものにも大きく左右されるんやと思う。

研究してた時に、自分の研究対象に対してそんな風に考察してたけど、まさか自分がそう感じることになるとは。

嫌な気分じゃないんやけど。

人から向けられる「まなざし」、それをどうやって内面化して自分のものにしていくか。

そうやって自己意識ってのは何層にも塗り固められて行くんかなと思う。

他にも「京都で『まなざし』に晒されること」についてもうちょっと書きたかったけど、ウダウダと長く書いてしまったからまた別の機会に。

タイトルとかけ離れてしもた気もするけど、いつものことやしまぁいいか。
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写真を見てると

この前、先輩のお宅にお邪魔した時の話。

オサレな先輩は家にポスターとか写真を壁にかけてらした。

共通の好きなミュージシャンのポスターとか、有名な写真家の写真とか。 

「なんていうか、ザラついた感じの写真が好きでさ。」  

先輩はそう言っていた。

絵画なんかでもそんな感じで、彼なりの感性に引っかかるものが好きなんやと。

そこからこんな写真撮る人がいる、あんな写真撮る人がいる、そんな話をしていた。




何かそんな感じで、「感性に全てを委ねる」ことができる人が、とても羨ましかった。

僕も好んで美術館に行き、絵を見たりアートを見たり、写真を見たりする。

そう言う経験から、いわゆる「伝統的な」芸術作品よりも、写真や映像を使った現代アートの方が好きやなって思ってたり。

特に写真。

写真って言うのが好きな理由は、割と明確。

僕がやってた研究の分野は視覚文化を扱うものやったから、美術史とか写真史、そのための理論なんかを勉強していた。

せやし、感覚的な部分より理屈っぽいことが理由になっている。

写真ってそれ自体は「現実じゃない」けど「現実を切り取った」もので、フィクションじゃないフィクション。

見せ方と言うところに加工がはいるから、必ずしも「生」とは言えへんねんけど。

ただ、写真によってはその人にとっての「リアル」を可能な限り再現しようとするための加工やったり。

そんなことを考えながら見ていて、「人の視線を追従できる」から、写真が好き。

人の見た世界が見れるから、写真が好き。

なんでこの人はこの写真を撮ったんやろうか、この人には何が見えたんやろうか。

なんで、この表現方法で見せようとしたのか。

そんなことを考えることができるから。

別にそれを考えることができるから「賢い」なんて奢りはないんやけど、ぐーっと思考を深く沈めていける、そんなものを見てるのが好き。

そんな自分を考えると、面倒くさいなぁと思う。

感覚だけで「あ、これ好きやわ」って言える方が、幸せなんやろうなぁと思ったり。

自分自身が面倒臭いと思うからあんまり人とミュージアムとかギャラリーに行かへんねやけど。

一体、僕とご一緒してくれる人とか、僕の話を聴いてくれる人は、どう思ってくれてるんやろ?

そんなことを、ふと思ってしまうのです。

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距離

アメリカ留学中の友人と、久しぶりに話した。

お互いの近況をあれこれ。

友人は、日本に残る友人の中でも、話の通じる人が欲しいのかもしれないようで。

あれやこれやと。

押し付けられるかのように、「あの人が」「あの本が」「研究が」と話をしてくる。

押し付けられるようではあるけど、別に嫌なことじゃない。

その場にいれる彼女への妬み、みたいなものはあるけど。

一時期はもうその手の話題から逃げていたけど、今は大丈夫やと感じる。

研究の現場にいないこと、生きた研究に触れることが出来ないことには後悔が残る。

ただ、そんなことにも慣れてきた。

麻痺してきたとかではなくて、いい意味で慣れてきた。

自分の向き合ってきたこと、自分の向き合うべきこと、向き合いたいこと。

その全てといい距離を保てるようになってきたから。

その理由は「向き合う」ということに対する無責任性の保持であって。

もう、なにも責任を負う立場ではないということ。

やらなあかんことから目を背けているという背徳感のようなものもなく、ほったらかしにしたいときにはほったらかしにして。

やりたいことに手を伸ばしては、別のまた一方にも欲張って手を伸ばしたり。

ようやく義務のようなものから解放されて、自由に慣れている実感を得られるから。

とはいえ、自由であることや、無責任であることに責任をもたなあかんかったり。

「野良」になることはもう不可能やけど、「放し飼い」でいられることは、とても心地が良い。

そんな現状を鑑みると、思考が研ぎ澄まされて行くよ。

と、彼女に話をしたら

「うらやましい」

と、一言。

僕は彼女が手に入れるであろうものを、もう手にすることはない。

でも、僕の得たものを彼女が得られるわけでもない。

きっとその感覚的なものの違いが、僕と彼女の間の距離みたいなもんなんやろうなと思う。

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