距離
アメリカ留学中の友人と、久しぶりに話した。
お互いの近況をあれこれ。
友人は、日本に残る友人の中でも、話の通じる人が欲しいのかもしれないようで。
あれやこれやと。
押し付けられるかのように、「あの人が」「あの本が」「研究が」と話をしてくる。
押し付けられるようではあるけど、別に嫌なことじゃない。
その場にいれる彼女への妬み、みたいなものはあるけど。
一時期はもうその手の話題から逃げていたけど、今は大丈夫やと感じる。
研究の現場にいないこと、生きた研究に触れることが出来ないことには後悔が残る。
ただ、そんなことにも慣れてきた。
麻痺してきたとかではなくて、いい意味で慣れてきた。
自分の向き合ってきたこと、自分の向き合うべきこと、向き合いたいこと。
その全てといい距離を保てるようになってきたから。
その理由は「向き合う」ということに対する無責任性の保持であって。
もう、なにも責任を負う立場ではないということ。
やらなあかんことから目を背けているという背徳感のようなものもなく、ほったらかしにしたいときにはほったらかしにして。
やりたいことに手を伸ばしては、別のまた一方にも欲張って手を伸ばしたり。
ようやく義務のようなものから解放されて、自由に慣れている実感を得られるから。
とはいえ、自由であることや、無責任であることに責任をもたなあかんかったり。
「野良」になることはもう不可能やけど、「放し飼い」でいられることは、とても心地が良い。
そんな現状を鑑みると、思考が研ぎ澄まされて行くよ。
と、彼女に話をしたら
「うらやましい」
と、一言。
僕は彼女が手に入れるであろうものを、もう手にすることはない。
でも、僕の得たものを彼女が得られるわけでもない。
きっとその感覚的なものの違いが、僕と彼女の間の距離みたいなもんなんやろうなと思う。