イージュー

なってしまいました、30歳。

ここ数年の誕生日といえば飲食店に勤めていたこともあって、お客様やスタッフにお祝いしていただき。

ケーキをもらったりお菓子をもらったり、お酒をご馳走になったり、プレゼントをいただいたりと賑やかに。

ちゃんと会社に勤めるようになって、地元を離れた去年は会社の先輩がサプライズで僕のいぬ間にケーキを買ってきてくれてました。

今年はというと誕生日前日から出張、出張先で誕生日を迎えることに。

誕生日が絡んだ一泊二日、泊まるホテルでチェックインするとき、年齢の記述に困りました。

今の年齢でチェックインして、チェックアウトするときは歳が変わる、変な感じです。

ただ、30になったからって、何かが劇的に変わるわけでもなく。

所詮は1日1日の連続、積み重ね、劇的どころか、なんにも変わりません。

そんなもんです。

派手に祝ってもらうこともない、一人やしそんなもんです。

「10年前、30になる頃に独身やと思ってた?」と聞かれたけども。

大学に入ってすぐの頃にはもう「大学院行って研究者になるには、30じゃ食っていけてへんやろな」と思ってたので、想定内というつまらない返事をしてしまったり。

まぁそれでも、一人で過ごすのに慣れたとはいえ寂しかったりするけど。

うん、まぁそれも時期、時期の問題やったり。

たぶん。





去年の夏、地元を離れてホームシックになっていた頃。

車を運転しながら好きな奥田民生の『イージューライダー』を聞いてると、勝手に涙がでてきたことがあった。

ずっと昔は「かっこいいなぁ、民生ちゃん」と感じていたけど、ふと、言葉賑やかに重さを感じたのでした。

いやー、歌詞に影響されるって、まだまだやなぁ自分。

そう思うものの、何かに区切りをつけて新しいことを始めた自分には今までとは違うように聞こえた。

好きなことができる、自由な時間を過ごせる、それがとても幸せやったんやってこと。

あぁ、20代前半のあの時代を、あの場所で過ごせたことはとても幸せやったんやな、と。

いざ30になってから聴いて見たところで、去年泣いたほどの何かはないねんな、不思議なことに。

そう言う意味では、今の生活が少しずつ馴染んできたんかなと。

馴染み始めたのはいいけど、まだまだ。

僕が憧れてきた人に追いつくどころか、3ヶ月前にお会いしたときには、話されてしまった気がしたり。

とはいえ、この人には何を言われるんやろうな、とか、思考においては差を縮めたかもしれへん。

憧れる人に追いつくためには、今のままじゃあかんなと思う。

まだまだ。

悩むことも何もかも、全ては自分のためにある。

そう思えるようになったこと。

自分で感じることができる成長は、そんなもんしょうか。

あとは日に日にお腹が大きくなって行くこと。

これだけはなんとか止めたい。

30の洗礼を、受け始めております。


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話長いくせにグダグダなんは、なんぼ歳をとっても治らへんねやろうな。

本気になるって、どういうことなんやろ

球蹴りの話。

最近、フットサルシューズを新調した。

新調した理由は、いままで履いてたやつはまだ履けるけど革が伸びてきたし、何より臭い。

それとは別に、自分のやりたいことにチャレンジするため、というのがある。

チャレンジするって言うか、プレーのタイプを変えると言うか。

就職する前の二年間は社会人リーグのチームに入ってサッカーを真剣にやってたし、フットサルもそれに照準をあわせて、サッカーに生かすためのプレーをしたいと思ってやってきた。

サッカーに生かすために、サッカーでやりたいことの練習に使うような。

ワンタッチらツータッチではたくことや、ファーストタッチの時のボールの置き所とか、体の向きとか。
 いろんなことを意識してフットサルをやった。

でも、サッカーをやる前は、プレーの質とかはほどほどに真剣に考えながらも、それよりも楽しむことを優先してたと言うか。

でもサボるわけではなくて、ちゃんとその時できる外をしっかりやって、今日はこれがしたい、あれがしたいと思いながらやってきたり。

フットサルはフットサルで公式戦があったりと、そこにつなげるためにやってきたつもり。


そこで、今はどうなんか、と。

就職して地元を離れて。

フットサルもサッカーも取り上げられて。

続けようと思ったら続けられるけど、気持ちは切れてしまった。

チームプレーの競技やのに、チームで練習することができない。

そんな状態にいると、気持ちが切れてしまう。

ただ、フットサル自体は続けている。


個サルっていうやつに行くわけです。

そこに来てる人で、めちゃくちゃ上手い人がいる。

ボールを扱う、足下でコネにコネる。

何がどうなって、そんな足技ができるのかわからない、そんな人。

それができたら面白いやろな、と思って、そこにアプローチしたいわけです。

個サル自体は、お世辞にもめちゃくちゃレベルが高いわけじゃない。

素人の人も来るし、女の人も来る、うまい上手くないは関係なくその人たちとやるのは楽しい。

でも、真剣にやると相手にならないわけで。、ちょっと手を抜くと言うか、みんなで楽しめたらなと思いながらバランスを取る。

その中で、余裕があるからいろんなプレー、やったことないことにチャレンジしたりする。

それって、真剣にやってないことなんかどうか。

それって、相手に失礼やったりするんかなぁ?とふと思う。

自分のできることに対してどれだけそれを発揮できてるか、という視点ではかなり手を抜いている。

ただ、その状況にかまけて、チャレンジを続けている。

個サルでその状態、地元に帰った時も少しそんな状態に。

周りは真剣にやってるけど、こっちは自由にやる。

真剣にやってるないわけじゃないねんけど、自分の程度でやる。

実際にそれって、手を抜いてるようで抜いてないような。

本気でプレーするって、どういうことなんやろ?

球蹴りだけじゃなくて他のことでもそう。

たとえば、自分の能力全部を発揮することが本気でやることなんか。

その状況にあわせて、なにかできることをやるのか。




自分の能力の七割くらいを出し続けるのが自分にとってベストなのか。

たとえば、全速力で走ると1キロ走れる、七割で走ると5キロは走れます、というスペックやったとして。

どっちが本気を出すということなんかな?って考え方で悩んでるような感じ。

それは結局、目的・ゴールが違うから答えが変わるんやけど。

1キロを早く走り切ることで言うと前者で、5キロを速く走るのなら後者、とか。



そうやって目的云々で考えた時、もう真剣にプレーすることはないなと思ってたけど、この先はこの先でちゃんとやろうとしてるってことなんかなぁ、とか思う。

ただ、それを周りの人が理解してくれるかどうかやねんなぁ。

「お前、サボりすぎやろ」とか、「遊びすぎ」とか「ふざけ過ぎ」って思われるのは面倒くさいよな。

ちゃんと自分の「本気」とか「真剣」をわかってもらうために、どうしたらいいんやろなぁ。

ぼんやり。

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暗い話が多いんやろうな、と思います。

僕の書くことの、だいたいが。

頭にあることをスーッと出して行く作業ってのは、大体が考えて考えた結果で自分の答え以外の部分、プロセスとか触りの部分だけのことが多い気がする。

まぁ、今回もそうなんやけど。


どんな大人になりたかったか。

それを思い返した時に、自分には欠落してしまったものが多いなぁと再認識。

その中で。

僕の欠落している部分を持っていながら、まだ足りひん、まだ足りひん……とそれを磨き続けようとする人もいるのですね。

昔、親しくしていた女性の方がまさにそれでした。

職業柄もあってか言葉遣いや姿勢、所作……などなど。

美しくあろうとする、完璧であることを目指す、そんな人でした。

一緒に結婚式に出た時も、友人の友人と話す時の言葉の使い方とか、挨拶をする時の姿勢とか、それはもうとてもとてもその場に適したものが選ばれるのです。


当然のことです、いたって普通です。

できるんです。

ただ、それが気持ち悪い。

それは、自分が持ってへん「もの」や「こと」を持っていることに対する嫉妬のような感情なのかもしれへん。

もしかすると、そんな人と並んだ時の自分の釣り合わなさが恥ずかしいのかもしれへん。

でも少し違うというか。

なんとも、できてしまうことへの羨ましさというよりかは、できてしまうが故に偽物にしか見えへんというか。

とくに、人付き合い、コミュニケーションの点において、それをキツく感じてしまう。

誰とでも問題なく、当たり障りのない会話ができたり。

会話をこなすのに適切な言葉が選べて、相手の声には耳を傾け声をひらって、展開するためのネタがあったり。

出来てしまう人が、気持ちが悪かった。



美しさ、その価値基準は人それぞれなんやけど、スマートであることが美しいことの全てではないんかなぁ、とか。

いま、仲良くしてくれる人たちは、何処か少し変なところがあるというか。

お世辞にも器用な人たちではない気がする。

人当たりのいい人でも、話をしてると何処か屈折してるというか、まっすぐじゃないというか。

別の人でとても人当たりのいい人は、そうすることで違う部分を隠しているというか。

展示とか「見る/見られる」ということを研究していたから、こういうことにはすごく気を向けていたんやけど、見せるということは一方で別の何かを隠すということ、とはよく言われる。

「かたる(語る)」ことは「かたる(騙る)」こと。

別の人は気を利かしたり、美しく上品であろうとしてたりするのかもしれないけれども、その奥に「できない」と自分に対して評価ができずにもがくような空気があったり。

できていて、さらに精度をあげるような努力とは少し違う。

みんな、少しずつ狂っているような。

そんな姿が、そんな人たちが、とてもとても愛おしいのです。

それは、苦しみに対しての執着なのかもしれへん。

その苦しさが美しいというか、苦しみに対する愛おしさをなくしてしまったら、どんなに楽なんかなあ?と思ったりするけど。

けど、何なんやろ?

僕はそんな人たちのことがとても好きで仕方が無いんやけども、せやし何が言いたいんかというと別に言いたいことがあったわけでもなく。

しばらく会えていないこの人たちと会いたいなぁとただただ思うだけなのです。

久しぶりに頭の中のこと、思考垂れ流しで、読み直してみたら選ぶ言葉も気持ち悪いんやけど。

ただただ会いたいなぁと、この二日間くらい考えてましたとさ。

今度はもっと明るい話したいなぁ。
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