暗い話が多いんやろうな、と思います。
僕の書くことの、だいたいが。
頭にあることをスーッと出して行く作業ってのは、大体が考えて考えた結果で自分の答え以外の部分、プロセスとか触りの部分だけのことが多い気がする。
まぁ、今回もそうなんやけど。
どんな大人になりたかったか。
それを思い返した時に、自分には欠落してしまったものが多いなぁと再認識。
その中で。
僕の欠落している部分を持っていながら、まだ足りひん、まだ足りひん……とそれを磨き続けようとする人もいるのですね。
昔、親しくしていた女性の方がまさにそれでした。
職業柄もあってか言葉遣いや姿勢、所作……などなど。
美しくあろうとする、完璧であることを目指す、そんな人でした。
一緒に結婚式に出た時も、友人の友人と話す時の言葉の使い方とか、挨拶をする時の姿勢とか、それはもうとてもとてもその場に適したものが選ばれるのです。
当然のことです、いたって普通です。
できるんです。
ただ、それが気持ち悪い。
それは、自分が持ってへん「もの」や「こと」を持っていることに対する嫉妬のような感情なのかもしれへん。
もしかすると、そんな人と並んだ時の自分の釣り合わなさが恥ずかしいのかもしれへん。
でも少し違うというか。
なんとも、できてしまうことへの羨ましさというよりかは、できてしまうが故に偽物にしか見えへんというか。
とくに、人付き合い、コミュニケーションの点において、それをキツく感じてしまう。
誰とでも問題なく、当たり障りのない会話ができたり。
会話をこなすのに適切な言葉が選べて、相手の声には耳を傾け声をひらって、展開するためのネタがあったり。
出来てしまう人が、気持ちが悪かった。
美しさ、その価値基準は人それぞれなんやけど、スマートであることが美しいことの全てではないんかなぁ、とか。
いま、仲良くしてくれる人たちは、何処か少し変なところがあるというか。
お世辞にも器用な人たちではない気がする。
人当たりのいい人でも、話をしてると何処か屈折してるというか、まっすぐじゃないというか。
別の人でとても人当たりのいい人は、そうすることで違う部分を隠しているというか。
展示とか「見る/見られる」ということを研究していたから、こういうことにはすごく気を向けていたんやけど、見せるということは一方で別の何かを隠すということ、とはよく言われる。
「かたる(語る)」ことは「かたる(騙る)」こと。
別の人は気を利かしたり、美しく上品であろうとしてたりするのかもしれないけれども、その奥に「できない」と自分に対して評価ができずにもがくような空気があったり。
できていて、さらに精度をあげるような努力とは少し違う。
みんな、少しずつ狂っているような。
そんな姿が、そんな人たちが、とてもとても愛おしいのです。
それは、苦しみに対しての執着なのかもしれへん。
その苦しさが美しいというか、苦しみに対する愛おしさをなくしてしまったら、どんなに楽なんかなあ?と思ったりするけど。
けど、何なんやろ?
僕はそんな人たちのことがとても好きで仕方が無いんやけども、せやし何が言いたいんかというと別に言いたいことがあったわけでもなく。
しばらく会えていないこの人たちと会いたいなぁとただただ思うだけなのです。
久しぶりに頭の中のこと、思考垂れ流しで、読み直してみたら選ぶ言葉も気持ち悪いんやけど。
ただただ会いたいなぁと、この二日間くらい考えてましたとさ。
今度はもっと明るい話したいなぁ。