アメリカその5—グラウンドゼロ

先週末はニューヨークに弾丸ツアーで行ってきました。
友人の友人宅(ニュージャージー)を拠点に、二日間。

いくつか見たものがありますが、今回のダイアリーは、グラウンドゼロについて。
この時期にアメリカに、しかも東部にいるのなら、行ってみたいと思っていました。


朝早くに車で出発して、お昼頃にニュージャージーに到着。
そこから電車で1時間ほどでニューヨーク市です。


到着してすぐアメリカ自然史博物館に、ここについてはまた次のダイアリーで。
そのごダウンタウンの方へ移動して、WTCビル跡地へ。


9年前、高校2年生のとき。
塾から帰ってきたら、いつもは早く寝るうちの母親がまだ起きてテレビを見ていた。
開口一番「あんた、凄いことになってんで」と一言。
「え、何これ?」


9.11同時多発テロ
いまでもあの出来事、いや映像のことをよく覚えている。
テレビの画面に映し出された映像を見て、一体何が起きているのかわからなかった。
本当に、映画の1シーンの様で、いまでもヴァーチャルリアリティなんじゃないのか?と思うほど。


あれから9年後の9月11日、この日にまさかアメリカにいるなんて思いもしなかった。
9年前のこの出来事が僕にとっての、ある意味での「アメリカを経験した」という初めての出来事。
このことがきっかけで起きた様々な出来事、それがきっかけで僕はアメリカが嫌いになった。
嫌いになったことで、アメリカに興味を持つようになって、いまの自分がいる。
そんで、いまここにいる。


いまの自分をつくるきっかけとなった事件の現場、いや跡地へと向かう。


サブウェイをおりて地上に上がると、人はまぁ多かったように思える。
「神はなんたらかんたら」と叫ぶ人が数人、保守的であろう人は、叫び続けていた。
写真を撮る人、花を手に持っている人、亡くなった人に、あの日の出来事に祈りを捧げる人、来ている人たちにインタビューをする人。
僕を含め、ここに来た人はそれぞれの理由がある。


うまく言えないけれど、ここには「何も無かった」ということだけが存在していたように感じる。
自分はここに来て何がしたかったのか、何を思うのか—そんなことを考えながら向かっていたはず。
それでも、自分が何を思うかというよりかは、それを取り巻くその時の状況を見て感じたことばかりやった。
そう思うと、決して「何も無い」わけではないのだけれど、それはここに来た人にそれぞれの理由があるように。




もちろんビルは無いし、みんな知っているとは思うけど、ここにはメモリアルを建てる予定で、その工事が進んでいた。
そんでこれもまたうまく言語化出来ひんけど、そこには「あの時の何か」の様な感覚がもう無いような気がした、それが「何も無い」というものの存在を感じた理由かな。
そこにあるのは「過去」という名前の「現在」、言い方を変えると、「記憶」と言うものなのかもしれないけど、それもまた違うような気もする。
9年て言うのは長いようで、記憶からすぐに引っ張り出して思い出せるから、本当についこの間のことのように思える。
いや、実際にそうなのかもしれない。


写真を撮る人たちや、インタビューをする人、語る人を見ていて思った。
もうすでにそれは過去の出来事であって、人にとって「今そこにある」何かではないのかもしれない。
僕にとっては今アメリカの研究をする、一つのきっかけになった出来事であるのは間違いは無い。
だからこそ、自分の中では生きているというか、「今もそこにある」ものなのかもしれない。
もちろん、写真を撮る人やインタビューの人の中にも存在しているのだろう、でも何かが違うような気がした。
それは自分の中で勝手にそう決めつけてるだけなのだろう。
自分の中で何かを確かめたい気持ちがあっても、そこにきて写真を撮るのは、自分も同じなのだから。


どないやねん、て感じになってしまった・・・。


グラウンドゼロやその近辺では、このことを記憶に残すことがひたすらに進められている。

こんなものや


こんな記念碑的なものがつくられている。





そして今後はこういうものが出来るらしい。


最近よく思うこと。
僕らは高校生の時とかに911をある意味で「体験した」。
その時の記憶って、大学に入ってから、その当時現地にいた先生たちに語られ、ある意味でお互いがお互いの記憶を共有していたように思う。
最近大学生になった子たちは、911が起きたとき小学生やったり、これから大学生になる子はもっと小さい。
そしてあの出来事を「体験」していない人たちが増えて行く。
「最近の子たちは911のことをよく知らない」と言うことを聞いて、ちょっと怖かったり感じることがある。
それは僕やまわりの人たちがアメリカのことを研究しているからなのかもしれないけれど。
多分、戦争を経験した祖父母の世代がその下の世代に感じたことは、これよりももっと、言葉にできないような何かを感じていたのかもしれないなと。


そう思うと、アメリカが次々と建てる記念碑も意味があるのかなと。
人は自分やその周りの人、同時代を生きた人たちと、そして共通の出来事を共有しなかった人たちと、記憶をどのような形で共有していくのか。
そもそも共有することなんて、可能なんかな?
もちろん感じることは人それぞれやし、まったく同じことは存在しないのだけど。


実際にこの場に来てみて「何も無い」と感じてしまったこと、それが今後の僕にどういう影響を及ぼすのでしょうね。


あ、文章能力に加え、写真を貼付けるセンスが無いのはご愛嬌ってことで。