「生存のエシックス」展

京近美で開催中の『生存のエシックス』展に行ってきました。

本当は昨日行きたかったのですが、まさかの休館日で、いけず。

それでも外ではアクアカフェの制作が進んでました。

展覧会のレビューが書けるほど、頭の中でまだまとまりきっていません。
何せ「アート」と捉えるのであれば、あまりに前衛的過ぎるというか、進歩的というか、そんな感じ。
勉強を通して展覧会の回り方や読み解き方というのも、多少はわかったつもりをしてましたが、ここまでくるともう何がなんだか。
今でも撮ってきた写真を見たり、買った図録と配布されていたプリントを一緒ににファイリングしたものを見ながら、復習中。
「じゃぁそれ終わってから書けよ」と言われそうですが、レビューは書けなくても感想くらいならかけるやろ、と思った次第。
とりあえず見てきたものをグルグルと考えすぎず、感じたままのことを書いてみよう作戦です。


まず感じたのは、この展覧会は芸術表現の可能性を探るものではあるものの、何を通してそれを探っていくのか。
それが「生存」だとかそういうのと結びついているのだなぁと(そんなの展覧会のタイトルでわかるか・・・)。
「生存」と言っても切り口は多様で、それは「ヒトは誰と、何と、どのようにして向き合い、生きていけるか」ということで、一言で言うと共生。
共生と言っても自然だけではなく、ヒトが創りだしてきた環境やモノ(機械など)、さらには宇宙と言った未だ未知の空間まで。
ヒトとヒトを取り囲む全てのものが未来においてどのようにして共生していけるかという研究を通して、様々な角度、それは感性学的であったり、脳心理学的であったり、ディシプリンを完全に横断した形で研究していき、最終的にアートとして表現しているようでした。


固い感想はこの辺までにしておいて。
誰でも言える感想を言うと「楽しかった」の一言です。
その大きな要素としてあるのが「体験」でした。

例えば、「盲目のクライマー/ライナスの散歩」の展示では、このような造形物があります。
で、これを見に来た人は自由に登って、体験出来るわけ。

これをそのまま登るだけでも、地面と垂直な面が無いので感覚的に変な感じに。
それだけではなく二つある大きな証明が片方ずつ、時には両方消えることで視覚情報が無くなり、自分のバランス感覚が鈍くなるというか。
そこから自分が正常な状態を保つために、手探りで面を見つけ、バランス取り戻していく感覚がわかったり。
養老天命反転地なんかは、これと同じ感覚なのかな?とか思ったり。



他には「未来の家政学」についての展示。
家事ロボットみたいなのがある空間の中で動いているのだけれど、その構造が面白い。


このカメラに向かって自分の顔を写し、表情を読み取らせる。そうすることでこの空間の壁にあるブラインドの開き方が変わり、覗けたり覗けなかったり。

実際に中にいるロボットもそれによって動き方が変わるようです。
それを現実世界に応用すると、ロボットは人の表情を読み取って、人のやって欲しいことをするようになるのか、なんて考えたりした。






その他、略。
様々な分野での研究結果をミュージアム展示として還元することで、来館者も参加出来るという展覧会。

制作者の意図は感じることとは別のところにあるみたいで、そのうちの一つは、ミュージアムにおける「視覚の絶対的優位性」を否定するような狙いもあるらしいです。
例えばミュージアムにおいては「展示物に触れないでください」という注意書きのおかげで視覚による情報がどうしても優位になってしまう、そのことで制作者も来館者もその関係性が疎外され(いや、そもそも「その関係性」って・・・という問題もあるのだけれども・・・)、作品と眼差ししか空間の中には存在しなくなる。
そして身体の存在を無視する(無いことにする)ことが美術を支えていて、強制的にミュージアムを「体験させられている」様な状況。
そのことがミュージアム、特に美術館における理想的な美術鑑賞である、というような状況へのアンチテーゼ的な意味も込められているようです。
それは触れるということだけではなく、カメラに向かって表情を見せるとか、積極的に「体験する」という参加型の行為全てを含めているようでした。
新しい芸術表現を探る展覧会で、新しい芸術体験をしてみるのも楽しいかもしれません。

Trouble in Paradise/生存のエシックス | 京都国立近代美術館
Trouble in Paradise/生存のエシックス: プロジェクト紹介 | 京都国立近代美術館


以上、簡単な感想でした。