みなみ

眠たいのになかなか寝られへんからもう一本。

大学の卒論打ち上げでフランス料理を食べにきたとき以来、2年半ぶりの難波。

梅田ですら一人でまともに歩かれへんのに、心斎橋やら難波は余計。

来たことがあるのも、指折って数えられるくらい。

それでもなんとなーく、雰囲気が変わってる気がするもんで。

人と一緒に歩いてんのに、キョロキョロしながら、上見てした見て右見て左見て。

すれ違う自転車がスポーツタイプなら「どこの自転車やろ?」と目で追い。

色々観察して歩いていた。

まず、とにかくビルがでかい、高い、ほんで圧迫感。

広いはずなんやけど、狭く感じる窮屈さ。

ほんでからまぶしい、キラキラ、ピカピカしている。

そこからやってくる情報量の多さには圧倒される。

目に見える壁という壁、全てが「広告」。

ショーウィンドウやら、実際のポスターやら。

博物館は、ルーブルをして「歩くだけで教育」と言われるけど、街を歩くということは商業的に洗脳されるんじゃないかと思うくらい。

一応ね、人が広告に晒されている時間は一日○○分で、一生のうんたらかんたらって言いますさかいにね。

もちろん、京都がまったくそうじゃない、というわけではなくて、京都は街でもまだまだ何も無い。

都会を歩くと言うことがこれほど疲れるものなのかと。

普段一人で京都を歩く時は音楽を聴きながら歩くんやけれども、入ってくる情報量を減らす役割がそれにはあるなと、自分でも感じているから余計にそう思うのかもしれない。

人と一緒の時は会話したり何かしてたら気にならへんけども、一人の時は聞こえてくる音のほとんどを拾ってしまう癖があるから、ほんの数分で疲れてしまう。

聴覚だけじゃなくて、そこに視覚情報も入ってくるから余計に。

音楽を聴いていたら、自分は「目的地に向かって歩く」と言うことにだけ集中すれば良くなるから楽なのだろう。

話は大分ズレましたが、難波の話。

都会の部類に入るこの街は一体どこへと向かうのだろうかな?とかふと思ってみたり。

道頓堀川の工事したり、古いものを壊して新しく何か造ったりしてるけども、どこに向かってやってるんやろうかと。

まぁそこにはお金の話とか色々ややこしいことがあるんやろうけどもぉー。

何か目的がその「商業的」な何かのためだけに存在しているんじゃないかと思わされてしまった。

都会ってそんなもんやろ?と言われればそこまでなんですが。

別に街自体が都会だけってわけでもないし、もちろん都市に対して郊外、さらに田舎と、人が生活する場所って言うのはいろいろと多様に存在するもんやし。

でもその中で都会である「難波」は、どこに対してどういう価値観を表現するために、開発されていくんやろうか?

どこに対してと言うと、なんとなくその競争相手が存在しているようですが(ていうかある形で設定されて入るのでしょうけど)。

そういう都市開発と表現みたいなこともこれから考えてみたいなー、なんて思ったりなんかして。

結局この話がどこに落ちるかというと、いつも通りどこにも落ちひんというオチ。

一日に2本も記事を書いて、2本ともそれかーーーーーい!!

あー、興味だけで言語化しきるのが苦手なくせに、喋ろうとする自分がいやじやーーー・・・。