ふと真面目に考えてしまった事があるんです。
たまには真面目なことも考えるんです、今回はそんなお話。
いや、僕の書くことの大体が面倒くさいことばかりですね、すみません。
先日、不幸があったので葬儀に参列したのですが、そこで気になった事が。
他の人はこんなこと考えるのかなぁと気になり友人に話してみたところ、友人は気にした事がないとのこと。
他の人はどうなんやろ、気になるわ。
そう思って今回はハイクにも落としてみようかと思います。
お葬式の話。
お葬式のやり方っていうのはある程度、共通の部分があるけれど、その家の信仰などによって異なることやと思います。
仏教とかキリスト教とか、信仰の対象やなんやかんやで変わってくるかと思います。
他にも同じ宗教でも、国が違えば方法は変わったりするでしょう。
仏教でも◯◯派とかあるでしょうし、キリスト教でもカトリックや何やといろいろあります。
うちの家も、ある宗教のある宗派と言いますか、ある信仰の一派・・・と言ったらとても怪しく変なのですが、まぁそんな感じなので、その宗派のやり方で葬儀を執り行うことになりました。
ただ僕は家族の中でも一人だけ「人には信教の自由があるでしょ、僕はこの宗教の宗派の一員にはなりたくありません」と言うような感じで、それを信仰(の対象と)していない。
信仰とか、言葉を適正に使えているかわからなくなってきますが、とりあえず今回は目をつぶって・・・。
話は戻って。
親戚でいえば父の弟である叔父とその息子(いとこ1)はその一員ではないけれども、父の妹である叔母とその旦那さんである叔父、その息子(いとこ2)はその一員である。
今回は家族・友人が参加する葬儀であったため、その宗派の方々がいらっしゃいます。
葬儀屋さんもその宗派の葬儀を専門に行う会社なので、その宗派のやり方で葬儀は始まります。
始まってみると僕と叔父、いとこ1はアウェーなわけです。
叔父といとこ1はその宗派に精通していない、僕は生まれた頃からしばらく経つまで「やらされていた」ためわかるのだけれども(半分以上忘れていたけれど)、自分からやめたいと言ってやめているので念仏的なことに参加するのは自分の意志に反することになります。
なので僕ら三人は手を合わせているだけで、念仏的なものを唱えることはしていませんでした。
そこでふと思ったのです。
故人のことを考えた場合、故人が望むやり方には従ってあげた方が良いのだろうか?
今回の場合は僕ら三人は信仰に無関心だから、とうようなスタンスなので、従ってあげても良かったのかもしれない。
たとえ方法がわからなくても、わからないなりに、気持ちがあれば大丈夫!みたいな感じで。
故人の信仰、それに関するやり方で葬儀が進むのならそれに従う、参加してあげることが故人を送り出すのに良いことなのかもしれない。
でも、もしもの話。
故人が信仰の対象にしていたもの、故人が所属していた宗派と、仮に、仮にですよ、自分の信仰の対象としているものや所属している宗派が相容れない関係であった場合。
たとえ人間関係上は友人であっても「(信仰の対象について)それに対して手を合わせることができないので、参列はしますがその方法にのっとり、と言うのには参加しかねます」ということになったりしないのでしょうか?
参列する、それだけで良いのかもしれません、例えば大きな葬儀の場合などでは。
宗教の種類や宗派の壁は、細かいレベルで気にすることはあっても、その程度の「参加」であるのなら、宗教なんてモノは些事な問題でしかないのかもしれない。
じゃぁ、身内の場合は?
僕の場合は、自分は長男であるけれどもこの宗派をぬけることによって、今後両親が亡くなった時に自分が喪主になることができないかもしれない。
自分が取り仕切ることをしてあげられないかもしれない、そう思ったけれどもその宗派をやめました。
自分がその信仰の宗派の一員ではないので、親が望む葬儀のやり方で行うのであれば、僕がと言うのは無くなるかなと思っています。
参列なんてレベルではなく、故人に対して関係性が近い場合は、色んな弊害が出てくるんじゃないか。
信仰の対象が異なる場合、どうしてあげることがお互いにとって一番良いことなのでしょう?
そのジンテーゼ的なものが、見つからないかもしれない。
そんなことを葬儀の途中、ずっと考えていました。
祖母には申し訳ないことをしたのかもしれない、そんなことも考えながら。
じゃぁ、参加してあげれば良かったんじゃなかったの?
と言われると、それは自分が「違う」と言ったことを否定するような気がしたり。
そんなこと、くだらないプライドのようなものとか、しょうもないものと思われるかもしれない。
でも、意外とそうでもないんです。
深く考え過ぎかもしれない。
でも、考えても考えすぎることはないようなものだと思います。
故人を送り出してあげる時、あなたなら、どうする?